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練習艦・戦艦『摂津』 [艦名ツーリング]

大好きなジャズピアニストのライブを聴きに寒空の下大阪へ。
艦名の宝庫・関西にせっかく来たからには数隻やっつけて帰りましょう、ということで。

練習艦『摂津艦』
竣工: 1854年
基準排水量: 920t
水線長: 52m
速力: 不明
兵装: 砲×8
Japanese_gunboat_Settsu.jpg
メキシコ船『ヘネラル・サンタ・アナ』号を米国が購入し税関監視船(こんな船種あるんですね)『カイヤホーガ』となり、さらに明治新政府に売られたのが『摂津艦』です。そもそもが中古の旧式艦ということもあり、間もなく機関を撤去して一線を退き、海軍兵学校の生徒が操船航海技術を学ぶための練習船として運用されました。やがて1888年に兵学校が東京築地から広島江田島に移転する際に売却、廃船となりました。


戦艦『摂津』
就役: 1912年7月1日
常備排水量: 21,443t
水線長: 161m
速力: 20kt
兵装: 50口径30.5cm砲 連装×2
     45口径30.5cm砲 連装×4
     15.2cm速射砲 単装×10
     12cm速射砲 単装×8
     8cm速射砲 単装×8
     45cm水中魚雷発射管×5
Settsu.jpg
『摂津』は『河内』型戦艦の2番艦として呉工廠で建造されました。ちなみに竣工した7月末に明治天皇が崩御しており、最後の明治戦艦ということになります。
最大の特徴は英国アームストロング社製の30.5cm砲を連装6基、豪華に12門も搭載した点です。前級である『薩摩』型は30.5cm砲×4、25.4cm砲×12 と大口径の主砲・副砲を兼ね備えていたのに比べると全く革新的な武装といえます(この点から、『河内』型は日本海軍唯一の弩級戦艦であるとする見解もあるようです)。
ところが主砲の配置と仕様についてはまだ試行錯誤の途中だったようです。6基を亀甲型に全周へ向けて配置したために必ず数門は目標に指向できませんでした。また前後の2基4門のみ50口径、他を45口径と砲身長を変えたために、そのままでは統一した射撃指揮が不可能となってしまいました(東郷平八郎元帥の「前後の砲は強くせんかい!」という鶴の一声が影響したという説があります)。これらの反省は後の金剛型、扶桑型の設計へ活かされていくことになります。
さて『摂津』の過ごした時代の日本は比較的平和な時代でした。第一次大戦が始まるとドイツ領だった山東半島の封鎖に向かいますが、直接の戦闘には参加していません。
1923年のワシントン海軍軍縮条約により、『摂津』は退役することが決まりました(この代償に『陸奥』の残存が許されます)。砲や装甲などの武装が撤去され、標的艦として新たな艦歴をスタートします。
Japanese_battleship_Settsu_as_target_ship_April_7_1940.jpg
初めは標的艦を曳航する役割でしたが、軍縮条約失効後の1937年には無線操縦装置を搭載し、自らがターゲットとなって友軍の砲爆撃(当然演習弾)を受けるようになりました。これらに耐えるよう若干の装甲強化もなされました。
開戦後は呉を母港として過ごします。1945年7月24日に米軍機の空襲によって大破着底。2年かかって解体完了しました。


さて摂津国のシンボルといえば
DSC_4566.JPG
一宮、住吉大社でしょう!(たまたま宿に近かったからだけど)
戦艦『摂津』の艦内には住吉大社の1/40模型が寄贈されていたそうですし。

関西では初詣の名所で、毎年数十万人が訪れるそうですね。
DSC_4559.JPG
早朝はほとんどだーれもいませんが、ピリッと清々しい空気です。

源氏物語絵巻なんかにも登場する、有名な太鼓橋
DSC_4554.JPG
うわーこんなん登れんて!
DSC_4550.JPG


★艦船踏破実績
29隻 196,829t
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