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砲艦『鳥羽』 [艦名ツーリング]

砲艦『鳥羽』
就役: 1911年11月17日
基準排水量: 220t
水線長: 55m
速力: 15kt
兵装: 8cm高角砲 単装×2
     13mm機銃 連装×1
     7.7mm機銃 単装×2
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『鳥羽』は初めての国産河用砲艦として、佐世保工廠で建造されました。前級にあたる英国製の『隅田』『伏見』に比べ、揚子江での運用を考慮して機関出力が強化されて15ktの速力を発揮しています。
外洋は航行できないため浮きドックごと曳航されて中国大陸に渡り、上海を根拠地として両大戦を戦いぬきました。1941年12月8日、太平洋戦争開戦の日には駆逐艦『蓮』と協同し、上海で英砲艦『ペトリル』を撃沈、さらに米砲艦『ウェーキ』を鹵獲する戦果をあげました。
敗戦時にも残存して除籍されたのち、中華民国軍に接収されます。『合群』『永済』『郝穴』と三たび名を変えた後、人民解放軍の手に渡りさらに『湘江』と改称されました。1960年代に50年余の艦歴を終えたようです。

鳥羽は京都市街の南の玄関口です。
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現代においても、名神高速の京都南ICを(渋滞に疲れ果てて)下りて最初に訪れる地です。
幕末には鳥羽伏見一帯を戦場として幕府軍・薩長同盟軍が衝突し、戊辰戦争の幕開けの地となりました。
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今は幹線道路沿いにラブホテルが建ち並ぶ、なんとも平和な土地になっています。

せっかくの京都なので少し観光しました。ベタに清水寺
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紅葉もさすがに散り終わってしまってますね。

再び京都駅の南側へ機動し、東寺へ。
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東寺では弘法大師の月命日である毎月21日に、弘法市という縁日を開いています。中でも年末12月21日のものは終い弘法と称してそれはそれは賑やかだそうで。ちょっとのぞいてきました。

こんな竹細工や
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表情豊かな鬼の焼き物
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塗り箸に名入れをしてくれる職人さん
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名前のインパクトだけで勝負のお店なんかもあり
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一年の締めくくりだけに人混みもすごかったですが、手作りの品ばかりでなかなか楽しい市でした。

練習艦・戦艦『摂津』 [艦名ツーリング]

大好きなジャズピアニストのライブを聴きに寒空の下大阪へ。
艦名の宝庫・関西にせっかく来たからには数隻やっつけて帰りましょう、ということで。

練習艦『摂津艦』
竣工: 1854年
基準排水量: 920t
水線長: 52m
速力: 不明
兵装: 砲×8
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メキシコ船『ヘネラル・サンタ・アナ』号を米国が購入し税関監視船(こんな船種あるんですね)『カイヤホーガ』となり、さらに明治新政府に売られたのが『摂津艦』です。そもそもが中古の旧式艦ということもあり、間もなく機関を撤去して一線を退き、海軍兵学校の生徒が操船航海技術を学ぶための練習船として運用されました。やがて1888年に兵学校が東京築地から広島江田島に移転する際に売却、廃船となりました。


戦艦『摂津』
就役: 1912年7月1日
常備排水量: 21,443t
水線長: 161m
速力: 20kt
兵装: 50口径30.5cm砲 連装×2
     45口径30.5cm砲 連装×4
     15.2cm速射砲 単装×10
     12cm速射砲 単装×8
     8cm速射砲 単装×8
     45cm水中魚雷発射管×5
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『摂津』は『河内』型戦艦の2番艦として呉工廠で建造されました。ちなみに竣工した7月末に明治天皇が崩御しており、最後の明治戦艦ということになります。
最大の特徴は英国アームストロング社製の30.5cm砲を連装6基、豪華に12門も搭載した点です。前級である『薩摩』型は30.5cm砲×4、25.4cm砲×12 と大口径の主砲・副砲を兼ね備えていたのに比べると全く革新的な武装といえます(この点から、『河内』型は日本海軍唯一の弩級戦艦であるとする見解もあるようです)。
ところが主砲の配置と仕様についてはまだ試行錯誤の途中だったようです。6基を亀甲型に全周へ向けて配置したために必ず数門は目標に指向できませんでした。また前後の2基4門のみ50口径、他を45口径と砲身長を変えたために、そのままでは統一した射撃指揮が不可能となってしまいました(東郷平八郎元帥の「前後の砲は強くせんかい!」という鶴の一声が影響したという説があります)。これらの反省は後の金剛型、扶桑型の設計へ活かされていくことになります。
さて『摂津』の過ごした時代の日本は比較的平和な時代でした。第一次大戦が始まるとドイツ領だった山東半島の封鎖に向かいますが、直接の戦闘には参加していません。
1923年のワシントン海軍軍縮条約により、『摂津』は退役することが決まりました(この代償に『陸奥』の残存が許されます)。砲や装甲などの武装が撤去され、標的艦として新たな艦歴をスタートします。
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初めは標的艦を曳航する役割でしたが、軍縮条約失効後の1937年には無線操縦装置を搭載し、自らがターゲットとなって友軍の砲爆撃(当然演習弾)を受けるようになりました。これらに耐えるよう若干の装甲強化もなされました。
開戦後は呉を母港として過ごします。1945年7月24日に米軍機の空襲によって大破着底。2年かかって解体完了しました。


さて摂津国のシンボルといえば
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一宮、住吉大社でしょう!(たまたま宿に近かったからだけど)
戦艦『摂津』の艦内には住吉大社の1/40模型が寄贈されていたそうですし。

関西では初詣の名所で、毎年数十万人が訪れるそうですね。
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早朝はほとんどだーれもいませんが、ピリッと清々しい空気です。

源氏物語絵巻なんかにも登場する、有名な太鼓橋
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うわーこんなん登れんて!
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★艦船踏破実績
29隻 196,829t

海防艦『生野』『金輪』 [艦名ツーリング]

瀬戸内海海防艦の旅、後編です。
海沿いの国道185号を快走しております。

海防艦『生野』
竣工: 1945年7月17日
基準排水量: 940t
水線長: 79m
速力: 19.5kt
兵装: 45口径12cm高角砲 連装×1 単装×1
     25mm3連装機銃×2
     九四式爆雷投射機×2
     三式爆雷投射機×1

鵜来型の『生野』(「いくの」でなく「いきの」と読むようです)は全海防艦中最後に竣工しました。舞鶴鎮守府隷下の第51戦隊に編入されましたが、目立った戦果もなく約3週間で敗戦。復員輸送に従事したのち、1947年7月に賠償艦としてソ連に引渡されました。

由来は広島県の生野島
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竹原の道の駅の近くにある的場公園というところから南正面に見える島です。
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さらに185号をひたすら西へ。
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艦船マニアの聖地・呉もササッと通過です。


海防艦『金輪』
竣工: 1945年3月15日
基準排水量: 940t
水線長: 79m
速力: 19.5kt
兵装: 45口径12cm高角砲 連装×1 単装×1
     25mm3連装機銃×2
     九四式爆雷投射機×2
     三式爆雷投射機×1

この艦も鵜来型なので諸元はコピペでございます。三井玉野造船所にて建造され、敗戦時も残存。復員輸送に従事したのち、1947年に賠償艦としてイギリスに引渡されシンガポールで解体されました。

由来は広島市内の金輪島。
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対岸の横浜という住宅地から撮りました。
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そういえば高知市内にも横浜って地名があったような。港町にはありふれた地名なんですかね。

もう日が暮れそうですが、最後にもう1ヶ所だけ。
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宇品軍港の跡地です。
宇品は明治中頃から開発の進められた埋立地でした。日清戦争に際して広島(当時の山陽鉄道の西端だった)が軍事拠点として注目され、宇品は大陸へ兵員を送り出す兵站基地として発展していきます。
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宇品から出発して還らなかった幾万の兵士にささげる歌碑。
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埠頭の一部が公園とされ、広島築港100年記念のタワーがそびえています。
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センス無いな…。


おまけ。海上保安庁の測量船『くるしま』が停泊していました。
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★艦船踏破実績
27隻 174,466t

海防艦『生名』『高根』 [艦名ツーリング]

海防艦『生名』
竣工: 1944年10月15日
基準排水量: 940t
水線長: 79m
速力: 19.5kt
兵装: 45口径12cm高角砲 連装×1 単装×1
     25mm3連装機銃×2
     九四式爆雷投射機×2

日振型海防艦の5番艦として日立造船桜島造船所で竣工。フィリピン~台湾~対馬海峡と広範囲で哨戒・掃海などの任務につきました。朝鮮半島で敗戦を迎え、引続き掃海作業に従事後は運輸省に移管し定点気象観測船『生名丸』となりました。さらに1954年に海上保安庁へ移管されて巡視船『おじか』と改称しました。1963年に退役し19年の長い艦歴を終えました。

艦名の由来となったのは愛媛県の生名島。
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しまなみ海道で渡れる生口島から撮影。
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サーキットやスポーツ公園など、レクリエーション施設の整備された島のようです。
このまま生口島の北岸を走って次の目的地へ。


海防艦『高根』
竣工: 1945年4月26日
基準排水量: 940t
水線長: 79m
速力: 19.5kt
兵装: 45口径12cm高角砲 連装×1 単装×1
     25mm3連装機銃×2
     九四式爆雷投射機×2
     三式爆雷投射機×1

鵜来型海防艦の17番艦として三井玉野造船所で竣工。7月に能登半島沖で空襲を受け、舞鶴へ入港。舞鶴工廠で修理中に敗戦を迎えました。1947年11月に解体を完了しました。

高根島は色鮮やかな鉄橋で生口島と結ばれています。
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島の西岸はすぐ海に手が届きそうな道。釣り人がたくさん集まっていました。
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途中で見つけた空家。
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スティーブン・キングの小説に出てきそうな、なんとも味のある家ですね…。

海防艦の旅はまだまだ続きます。

★艦船踏破実績
25隻 172,586t

防護巡洋艦『高砂』 [艦名ツーリング]

防護巡洋艦『高砂』
就役: 1898年5月17日
基準排水量: 4,155t
水線長: 118m
速力: 22.5kt
兵装: 40口径20cm速射砲 単装×2
     40口径12cm速射砲 単装×10
     40口径76mm速射砲 単装×12
     47mm速射砲 単装×6
     35.6cm水上魚雷発射管×5
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全ての砲を速射砲とし、高速で敵を翻弄する。防護巡洋艦のお手本のような『吉野』は日清戦争においてその優秀さを世界に示しました。『吉野』の兵装と装甲をさらに強化して設計された準同型艦が『高砂』です。
イギリス・ニューカッスルのアームストロング社エルジック造船所で竣工。『吉野』から多くの改良がなされており、同型艦とは見なさない説もあります。チリ海軍が発注した防護巡洋艦『チャカブコ』とほぼ同型です。
1900年の北清事変で初陣を飾り、日露戦争では旅順攻略戦や黄海海戦に参加しましたが旅順要塞陥落目前の1904年12月13日、港外で触雷して沈没しました。


兵庫ツーリング最後の目的地、高砂は加古川河口にある浜の名。
この地にあったという、黒松と赤松が一体となった「相生松あいおいのまつ」が古今和歌集で紹介され、後に世阿弥が能楽にします。夫婦和合と長寿を松に託したことから、結婚式でさかんに謡われました。

訪れたのは高砂神社。
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イザナギとイザナミの宿るという伝説の「相生松」は枯死と植替えを繰返され、現在境内にあるのは5代目。
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こちらは無名の松ですが、地を這うようなみごとな枝ぶり。
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海岸は工業地帯となっており、神社の横には古い工場(あるいは倉庫?)がありました。古いレンガの壁がいい色だったので一枚。
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★艦船踏破実績
23隻 170,706t

砲艦『舞子』 [艦名ツーリング]

砲艦『舞子』
購入: 1943年8月15日
常備排水量: 95t
水線長: 37m
速力: 5kt
兵装: 40口径7.6cm高角砲 単装×1
     20mm機銃 単装×1

元はポルトガル海軍の砲艦『マカオ』。その名の由来である植民地マカオを警備するために建造されました。ポルトガルは第二次大戦において中立を宣言していましたが、マカオ周辺を占領した日本軍が交渉の後これを購入。『マカオ』は兵装や兵員室の改造を経て、日本海軍砲艦『舞子』として生まれ変わりました。ちなみに、常備排水量95tと日本海軍「最小」の軍艦です。
香港・マカオ・広州方面の哨戒任務に従事し、広東で終戦を迎えた『舞子』は1947年に中華民国海軍に接収されて『舞鳳』と再び改称。内戦中の1949年に中共軍に投降し、『3-522号』と三たび改称。最後は少し味気ない艦名となり1960年代に退役しました。


由来の地は舞子ヶ浜
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明石・須磨の間にある海岸で、古来より生えていた松の枝ぶりの見事さから名付けられたといいます。平清盛もここで舞楽を楽しんだとか。
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現代では淡路島へと延びる世界最長の吊橋、明石海峡大橋の本州側出発地となっています。ちょうど夕暮れ時で海が輝き実に美しい風景でした。

この日の艦名ツーリング、目的地はもう1ヶ所残っています。果たして間に合うのか!



★艦船踏破実績
22隻 166,551t

防護巡洋艦・工作艦『明石』 [艦名ツーリング]

防護巡洋艦『明石』
竣工: 1899年3月30日
常備排水量: 2,755t
水線長: 90m
速力: 19.5kt
兵装: 40口径15.2cm砲 単装×2
     40口径12cm砲 単装×6
     47mm速射砲 単装×12
     45.7cm水中魚雷発射管×2
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防護巡洋艦は19世紀末から20世紀初頭にかけて各国海軍で建造された艦種で、役割は後世の軽巡洋艦にほぼ相当します。主任務は偵察や通商破壊、そして船団護衛。求められたのは広い作戦海域を縦横に駆け回る航海能力と航続力、さらに駆逐艦程度の敵なら撃破できる砲戦能力でした。また多数を配備して各方面に展開できるよう、コストの低減も重要視されました。

初代『明石』は須磨型の2番艦として横須賀造船廠で建造されました。初の国産防護巡洋艦『秋津洲』の縮小改良型という位置づけになります。
日清戦争には間に合わなかったものの、北清事変で初陣を飾り日露戦争でも各地で活躍。1904年末に旅順近海で触雷大破し修理を行っています。
第一次大戦に際しては青島攻略戦をはじめとしてインド洋、地中海まで足を伸ばし、戦後のシベリア出兵にも参加しました。
やがて老朽化も顕著となって二等巡洋艦から二等海防艦へ格下げされ、艦齢30年を超えた1930年に伊豆大島沖で急降下爆撃の実験標的とされて沈没しました。



工作艦『明石』
就役: 1939年7月31日
常備排水量: 10,500t
水線長: 155m
速力: 19.2kt
兵装: 12.7cm砲 連装×2
     25mm機銃 連装×2
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外洋海軍の任務の多くは、本土から遠く離れた地での活動です。戦闘で傷を負って補修を必要としたり、整備が必要になったりしてもその都度本土へ帰投する余裕はありません。
そこで、港湾や泊地で艦艇に横付けして補修・整備する工作艦という艦種が生まれました。
工作艦には高い戦闘力は求められず、日本海軍では旧式軍艦や民間船から改造されて使用されることが多かったのですが、当初から工作艦として建造された最初の(そして最後の)艦が『明石』です。

先代の防護巡洋艦『明石』が伊豆諸島で処分されてから7年後の1937年、マル2計画の一部として佐世保で建造開始され、1939年に竣工すると早速連合艦隊に配属されました。
甲板上に3基の大型クレーンを備え、艦内に17ある工場には本土の海軍工廠にも無かったドイツ製の工作機械が設置されました。非常に高い整備・補修能力を持ち、米海軍からは「最重要攻撃目標」とマークされていたそうです。
開戦後にパラオ、フィリピン、蘭印に進出して多くの艦の整備・補修に従事。1942年8月からはトラック諸島を本拠地としました。
1944年2月のトラック空襲で大破し、パラオへ脱出。しかし翌月3月10日にパラオで空襲に遭いついに大破着底して、日本海軍は南洋での補修能力を失いました。



艦名の由来は兵庫県の景勝地『明石の浦』
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白砂青松の景色は今も公園に残っています。海の向こうに見えるのは淡路島。
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越前松平家8万石の城下町でもあります。駅北口すぐにある明石城の入口にて。
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駅の南側は商店街が広がっており、特に『魚の棚(うぉんたな)』と呼ばれるエリアには海産物を扱う店がたくさん軒を連ね、土日のお昼時は観光客でごった返しています。
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こんな風に棚を広げ、商品を並べているので『魚の棚』。
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昼めしは『あかし多幸』で。
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新鮮な明石鯛を使った鯛茶漬け
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一晩タレに漬けた鯛に熱いお茶をかけて。
さらに明石といえば明石焼き! 地元の人は「卵焼き」と呼ぶらしいです。
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出し汁にからめていただきます。抹茶塩も合う。
お店のマスコット
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鯛焼きと明石焼きを持った招き猫。手作りかな?



★艦船踏破実績
21隻 166,456t

20隻突破!

装甲巡洋艦『出雲』 [艦名ツーリング]

装甲巡洋艦『出雲』
進水: 1900年9月25日
常備排水量: 9,750t
水線長: 122m
速力: 20kt
兵装: 20.3cm砲 連装×2
     15.2cm速射砲 単装×14
     8cm速射砲 単装×12
     47mm速射砲 単装×8
     45.7cm水中魚雷発射管×4
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「装甲巡洋艦」は20世紀初頭特有の艦種です。諸外国ではあくまで装甲を強化した巡洋艦という扱いで、主な任務は通商破壊や索敵、船団護衛でしたが、日本海軍では戦艦部隊の補助戦力として対艦攻撃力に重点を置いた設計を採用しました。これは日清戦争の戦訓に基づき、戦艦部隊が打撃を与え、巡洋艦部隊が逃さず追撃して撃沈する、というドクトリンで、日露戦争の日本海海戦で完成します。
『出雲』は六六艦隊第二期拡張計画の一艦としてアームストロング・ホイットワース社で建造され、日露戦争では上村彦之丞中将率いる上村艦隊(第2艦隊)の旗艦となりました。
1904年8月の蔚山沖海戦ではウラジオ艦隊の装甲巡洋艦『リューリック』を撃沈。同艦は対馬海峡で日本の艦船を多数撃沈していた宿敵でしたが、沈没の瞬間まで奮戦する姿に感銘を受けた日本艦隊は生存者の救助にあたりました。この救助活動は国内外で賞賛され、『上村将軍』という唱歌まで作られています。
上村艦隊は1905年5月の日本海海戦にも参加しました。バルチック艦隊旗艦『クニャージ・スヴォーロフ』の追撃を命じる東郷司令長官に対し、上村中将はスヴォーロフの舵機故障を見破り、命令を無視して敵戦艦部隊へ突入。結果的に挟撃する形となり、海戦の完全勝利に大きく貢献しました。

第一次大戦ではアメリカ西海岸、地中海マルタ島に派遣され、船団護衛任務に従事。大正期は練習艦となって遠洋航海を実施しました。

日中戦争・太平洋戦争の時期には第3艦隊(遣支艦隊)に所属して上海で活動。のちに対空兵装を強化しましたが外征に参加することはなく、瀬戸内海で練習艦として運用されました。1945年7月24日に呉軍港で米艦載機の空襲を受けて転覆着底、45年の長い艦歴を終えました。


艦名の由来はもちろん旧国名。
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最も出雲らしい地といえばやはり出雲大社です。
この地には古代から製鉄技術を発達させ日本海沿岸に強い影響力を持った国家が存在しました。やがて大和朝廷に服従しますが、この「国譲り」の交換条件として建立されたのが出雲大社だそうです。

1990年まで、山陰本線・出雲市駅からの支線『大社線』が大勢の参詣客を乗せ運行していました。終点の大社駅駅舎は純和風の重厚な設計で廃線後も保存され、近代産業化遺産に指定されています。
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★艦船踏破実績
19隻 153,201t

戦艦『土佐』 [艦名ツーリング]

戦艦『土佐』
進水: 1921年12月18日
常備排水量: 39,979t
水線長: 235m
速力: 26.5kt
兵装: 45口径41cm砲 連装×5
     50口径14cm砲 単装×20
     40口径7.6cm高角砲 単装×4
     61cm水上魚雷発射管×8
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『加賀』型戦艦の2番艦として三菱造船所長崎で起工、『長門』型と同じ41cm砲を10門搭載し、世界最強の攻撃力を持つ設計でした。しかし進水の直後にワシントン海軍軍縮条約が締結され、廃艦となることが決定します。
未成のまま海軍に引き渡された『土佐』は標的艦として使用されることになりました。機関未搭載のため、運用術練習艦『富士』(日露戦争時の主力艦)に曳航されて長崎から呉へ向かいます。
1924年6月から『土佐』の実験が開始されました。陸上からの砲撃や船体に固定した爆薬を用いて、船体防御と新型砲弾の研究が進められ、このとき得られたデータは後に九一式徹甲弾の開発に活用されています。
『土佐』最後の航海は1925年の2月でした。標的艦『摂津』(これもかつての戦艦)に曳航されて大分の佐伯港へ入港。自沈用設備を取付けて出港し、2月9日に高知県沖の島沖で自沈しました。

兵装や機関、煙突などの艤装が進められる前に廃艦となった『土佐』ですが、41cm連装砲塔3基の製作が進められていました。主を失った砲塔は対馬要塞と釜山要塞に1基ずつが運ばれ、要塞砲として活用されました。残る1基は横須賀で保管され、後に戦艦『長門』改装の際に利用されたそうです。


さて累計踏破トン数が10万トンを突破した艦名ツーリングですが、旧国名をルーツにする戦艦をどう扱うか悩んでいました。県庁所在地? 今も旧国名を残す自治体? 駅? 各国の一宮or護国神社?…
結局、「最もその国らしい場所」を都度判断すればよろしい、という文系らしい結論に至りました。趣味でそんなに律義になっても、ねぇ。
というわけで今回「最も土佐らしい」場所に独断と偏見で選ばれたのはここ
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高知市内にある若宮神社という小さな神社です。

ここは後に四国一円を武力統一する戦国大名・長宗我部元親が初陣の前に参詣し必勝を祈願した場所。
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左手を伸ばし、四国を我がものにせんとする逞しい銅像が建立されています。
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こんなキャンペーンも。
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1票投じてきました。


★艦船踏破実績
18隻 143,451t

給油艦『足摺』 [艦名ツーリング]

国道321号から足摺スカイラインで足摺岬を目指します。

途中にある白山洞門
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波風で自然にできた洞門としては日本一の大きさを誇るそうで、足湯付きの立派な展望台があります。
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坂を登って足摺岬に到着。
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ライダー大集合です!

給油艦『足摺』
就役: 1943年1月30日
基準排水量: 7,951t
水線長: 133m
速力: 16.0kt
兵装: 40口径12.7cm高角砲 連装×2
     25mm連装機銃×2
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三菱重工長崎で建造され、連合艦隊に配属。陸軍タンカーとも合同して船団を構成し、南方へ向かいます。1943年中はシンガポールと本土の間で軽質油輸送に従事し、明けて1944年にはボルネオ東岸の大油田バリクパパンへ。ここからダバオやサイパン島へ石油を輸送します。
スールー海を航行中の6月5日、米潜『パファー』の雷撃を受けて僚艦『高崎』とともに沈没しました。

足摺岬は四国最南端(厳密にはさらに南に陸地があるようですが)。
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太平洋に突き出した展望が素晴らしく、海の透明度も抜群。
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地元のヒーロー中浜(ジョン)万次郎の銅像がそびえています。
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★艦船踏破実績
17隻 103,472t

ついに10万t 突破!
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