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海防艦『羽節』 敷設艇『粟島』 [艦名ツーリング]

この週末は梅雨の晴れ間というやつでしょうか、焼けつくようなピーカンでした。この機会に近隣の艦名スポットを制覇すべし!ということで香川県へ。

丸亀のうどん屋『綿谷』でいつものように朝食を摂った後は、フェリーで広島へ。
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といっても広島県まで渡ったわけではなく、香川県丸亀市に属する広島という島。
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ややこしいので、「さぬき広島」と呼び分けたりしているみたいです。

上陸するといきなり朽ちたバスのお出迎え
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良い朽ち具合ですね~
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海防艦『羽節』
就役: 1945年1月10日
基準排水量: 940t
水線長: 78.8m
速力: 19.5kt
兵装: 45口径12cm高角砲 連装×1 単装×1
     25mm三連装機銃2基
     九四式爆雷投射機2基
     三式爆雷投射機16基
     爆雷投下軌条2基
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1944年から45年にかけて20隻が就役した鵜来型海防艦の1隻。三井造船玉野造船所で完成し。終戦時は巨済島で残存。特別輸送艦となり復員輸送に従事。その役割を終えた1947年には賠償艦として米国に引き渡され日本国内で解体されました。

艦名の由来は、広島のすぐ南にある『羽節岩』という岩礁。
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かすかに見える灯台が築かれたのは明治28年というから日清戦争の頃。ここを通過する艦船は、羽節岩を境に左側通行するよう定められているそうです。

一周1時間ほどの小さな島です。
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フェリーが来るまで、集落のはずれにあった神社で待つことに。
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なかなか荒れています。
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汗かきながら登ると立派な石垣
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木陰で休憩…DSC_2772.JPG
満面笑顔のお地蔵さん
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フェリーの時間が来た!ので丸亀へ戻ります。
少し遅めの昼食は名物骨付鶏。『一鶴』でいただきます!
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もちろんノンアルです!

さぬき浜街道を西へ、紫雲出(しうんで)山へ到着。
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もう紫陽花の季節なんですね。紫陽花は桜のようにパッと散らず、だんだん色あせていくところが少し悲しい。


敷設艇『粟島』
進水: 1945年7月26日
基準排水量: 766t
水線長: 74.5m
速力: 19.5kt
兵装: 五式40mm単装機関砲×2
     25mm連装機銃×3
      同単装×4
     二式爆雷36個
     (もしくは九三式機雷120個)
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神島型敷設艇の2番艦。終戦間際に進水しましたが間に合わず、明けて1946年4月に特別輸送艦として竣工しました。羽節と同じく復員輸送に従事したのち、1947年に中国・青島で米国に引き渡されました。

由来になったのは紫雲出山の麓に見下ろせる粟島。
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フェリーもあったのですが時間が合わず、今回上陸は見送り。


★艦船踏破実績
16隻 95,521t

防護巡洋艦『浪速』 [艦名ツーリング]

防護巡洋艦『浪速』
就役: 1886年2月15日
基準排水量: 3,709t
水線長: 91.4m
速力: 18kt
兵装: クルップ 35口径26cm単装砲×2
       同  35口径15cm単装砲×6
     (のち、アームストロング 45口径15.2cm単装速射砲×8 に換装)
     オチキス 43口径4.7cm単装機砲×6
     ノルデンフェルド 25mm4連装機関砲×10
     ノルデンフェルド 11mm10連装機関砲×4
     35.6cm魚雷発射管×4
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英国ニューキャッスルのロー・ウォーカー造船所で建造され、日本海軍最初の防護巡洋艦として就役しました。初代艦長はのちの連合艦隊司令長官・伊藤祐亨大佐。
『浪速』が歴史に名を残したのは、東郷平八郎が艦長を務めた日清戦争劈頭の豊島沖海戦です。仁川へ清国兵1,100名を輸送中だった商船『高陞号』を捕捉。随航を命じると英国人の船長はこれを承諾しました。ところが高陞号艦内の清国兵は紛糾し、船長以下の船員を脅迫し始めます。2時間余りの交渉の末、拿捕を不可能と判断した東郷艦長は撃沈を決意。雷撃、砲撃が開始され高陞号は沈没しました。
英国商船旗を掲げた高陞号の撃沈は国際社会に大きな反響を呼び、英国世論も一時反日ムードが盛り上がりました。しかし東郷艦長の判断は国際法に則った正当なものだったことが明らかとなり、逆に天津条約に違反して朝鮮へ大兵を集結中だった清国のイメージを下げる結果となります。
10年後の日露戦争でも仁川沖海戦、蔚山沖海戦・日本海海戦に参加しました。
1912年6月、北千島へ測量機材を輸送中に得撫島沖で座礁し沈没。


艦名は大阪の古名『浪速』から。最もそれらしいスポットは大阪市浪速区の新世界でしょう。
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野球がまさかの12回延長になり、通天閣に着いたのは深夜12時頃。眠気との戦いになりました。



★艦船踏破実績
14隻 93,815t

重巡洋艦『加古』 [艦名ツーリング]

重巡洋艦『加古』
就役: 1926年7月20日
基準排水量: 8,700t
水線長: 185.2m
速力: 33kt
兵装: 50口径20.3cm連装砲×3
     45口径12.7cm単装高角砲×4
     61cm4連装魚雷発射管×2
(要目は1937年近代化改装後)
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『加古』は古鷹型重巡洋艦の2番艦で、三菱神戸造船所にて1922年に起工され、4年かかって建造されました。1936年から翌年にかけて近代化改修を施し、バルジの追加、機関換装、水雷兵装の削減と対空兵装の増備がなされました。
太平洋戦争では開戦劈頭のグアム島、ウェーク島、ならびにラバウル島の攻略戦に参加。
1942年8月8日の第一次ソロモン海戦では五藤存知少将指揮の第6戦隊に所属し、高い夜戦能力を発揮して米重巡『クインシー』『アストリア』『ヴィンセンス』、豪重巡『キャンベラ』等の撃沈に貢献しました。
ところがこの大勝利からの帰路、味方制空圏内に入り安心したところを米潜『S-44』に捕捉され、3本の魚雷が命中。瞬く間に転覆、沈没してしまいました。


艦名の由来は兵庫県の中央を縦断する加古川。
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日本海軍の重巡洋艦(一等巡洋艦)は山岳の名を付けられるのが慣例ですが、当初『加古』は川内型軽巡洋艦の1隻として建造される予定だったため、例外的に川の名がつけられています。



★艦船踏破実績
13隻 90,106t

航空母艦『阿蘇』 [艦名ツーリング]

航空母艦『阿蘇』
進水: 1944年11月1日
基準排水量: 17,260t
水線長: 227.4m
速力: 32kt
兵装: 40口径12.7cm連装高角砲×6
     25mm3連装機銃×21
     12cm30連装噴進砲×6
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年始の九州ツーリングからの最後の艦は未成空母『阿蘇』です。
雲竜型の5番艦として建造着手され、1944年11月に進水。しかしその直前のレイテ沖海戦で日本海軍の航空部隊は壊滅的被害を受けており、もはや組織的な作戦能力を失っていました。既存艦船の整備修理に資材と労働力を優先したこともあり、『阿蘇』は進水直後、進捗60%の段階で工事中止が決定されました。
艤装工事もされず、艦を動かす燃料も不足した状態で呉港外の倉橋島に係留されていましたが、1945年7月には特攻兵器『さくら弾』の試験に供されることとなりました。成形炸薬を使用した『さくら弾』による損害は軽微でしたが、このときの浸水により徐々に傾斜しついに着底し敗戦を迎えました。
翌1946年12月から浮揚解体作業が始まり、1947年4月に完了しています。


火の山トンネル入口にて
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★艦船踏破実績
12隻 81,406t

装甲巡洋艦『阿蘇』 [艦名ツーリング]

装甲巡洋艦『阿蘇』
竣工: 1902年12月
基準排水量: 7,726t
水線長: 135.6m
速力: 21kt
兵装: 45口径20.3cm単装速射砲×2
     45口径15.2cm単装速射砲×8
     7.6cm単装速射砲×16
     45.7cm魚雷発射管×2
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元々はロシア海軍の巡洋艦『バヤーン』です。フランスはラ・セーヌの造船所で建造され、太平洋艦隊に編入されました。
日露戦争中の1904年7月、旅順港外で触雷し損傷。12月に日本軍の陸上砲撃を受けて大破着底します。
明けて1905年の6月に浮揚され、8月には戦利艦として日本海軍に編入されました。舞鶴へ回航し3年かけて修理・改造を行います。1920年には一等巡洋艦から敷設艦に類別変更。主砲塔を撤去しました。第一次大戦中やシベリア出兵に際しては日本近海へ出動。1931年に除籍され、翌1932年に標的艦として東京湾外で処分されました。


艦名の由来はもちろん熊本県の阿蘇山。
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熊本市内から県道を東へ。俵山峠を越えるルートでカルデラに入りました。雄大な地勢と一面の草地は素晴らしい。ツーリングマップル表紙写真の地も巡礼することができました。
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次回は大分県方面から行ってみたい。



★艦船踏破実績
11隻 64,146t

給油艦『野間』 [艦名ツーリング]

給油艦『野間』
竣工: 1919年5月28日
基準排水量: 11,680t
水線長: 121.9m
速力: 12.6kt
兵装: 50口径3年式14cm単装砲×2
     40口径3年式8cm単装高角砲×2
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1919年に座礁沈没した日本海軍最初のタンカー『志自岐』の代艦です。第一次大戦中に際し英国で建造されていた『War Wazir ウォー・ウォーディア』を買収して就役させました。北米やボルネオ方面からの原油輸入に従事しました。
後継である襟裳型給油艦の就役もあり、1928年に除籍されて飯野商事(現在の飯野海運)に払い下げられました。播磨造船所にて改装の後、再び北米からの重油輸送などに従事しました。
1933年にロサンゼルス沖で荒天のため座礁し沈没。


由来となったのは鹿児島県野間半島最西端の野間岬。
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南さつま市街から岬へは国道226号で向かいます。途中からは海上の断崖を走るスリリングな道。大きな橋梁が建設中だったので、改めて訪れると全く違う景色になっているかもしれません。





★艦船踏破実績
10隻 56,420t

巡洋艦『海門』 [艦名ツーリング]

巡洋艦『海門』
竣工: 1884年8月13日
常備排水量: 1,381t
水線長: 64.3m
速力: 12kt
兵装: 17cm砲×1
     12cm砲×6
     ノルデンフェルド25mm4連装機関砲×4
     ノルデンフェルド11mm5連装機関砲×4
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明治期の日本海軍は、戦艦等の大型艦を外国(英国)に発注する一方で小型艦は国産化し造艦技術の発展を促そうとしました。『海門』は横須賀造船所で初めて造られた純国産の巡洋艦です。鉄骨木皮の建造には相当手間どったようで、起工から就役まで8年近くもかかっています。ちなみに進水に際しクス玉を飾り、ハトを飛ばすセレモニーを行ったのは本艦が世界で初めてだそうです。
資料によっては「コルベット」「スループ」「フリゲート」と表記がまちまちですが、砲戦能力を備え外洋航海可能な戦闘艦としては「巡洋艦」の呼称が最もしっくりくると思います。

日清戦争後に三等海防艦に類別され、日露戦争中の1904年7月2日に旅順港外で触雷し沈没。


由来となったのは薩摩半島南端に位置する開聞岳。
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標高は1,000mに満たないながらも、海上よりそそり立つ円錐形の山体は薩摩富士の名に相応しい美しさ。天気が優れなかったのが悔やまれます。




★艦船踏破実績
9隻 44,740t

給油艦『佐多』 [艦名ツーリング]

年始の九州ツーリングから。

給油艦『佐多』
竣工: 1921年2月24日
基準排水量: 15,400t
水線長: 138.7m
速力: 12kt
兵装: 45口径3年式14cm単装砲×2
     40口径3年式8cm単層高角砲×2
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当時大小合わせて4隻しかタンカーを保有していなかった日本海軍が初めて多数建造したのが、給油艦『知床』型7隻です。『佐多』はその4番艦として横浜船渠で完成しました。
就航後海外からの重油輸送に従事していましたが、1937年の日中戦争勃発を機に中国沿岸での補給任務にあたります。さらに1938年には潜水艦救難設備を装備し、伊予灘で『伊63』、玄界灘で『伊61』の引揚げ作業を行いました。
太平洋戦争においては南方作戦やミッドウェイ作戦をはじめとして各地での燃料輸送に活躍。
1944年2月12日、輸送船団を編成しトラックを出港しますが、2月17日に米潜『サーゴ』の雷撃を受けて大破。僚艦に曳航されてなんとかパラオまでたどり着き、修理に入りますが今度は空母艦載機(ミッチャー中将率いる第58任務部隊)の空襲を受けてついに沈没しました。

由来は鹿児島県 大隅半島の南端にある佐多岬。
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日本本土の最南端でもあります。
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県道68号から岬までは、佐多岬ロードパークという観光道路があります(地元の岩崎グループが整備し、現在は行政に運営を移管)。ソテツやビロウなどが自生し南国の雰囲気いっぱいです。道幅狭く、路面に多少荒れがあるのでスピードは控えめに。



★艦船踏破実績
8隻 43,359t

給炭艦『室戸』 [艦名ツーリング]

四国ツーリングの振り返りです。

給炭艦『室戸』
竣工: 1918年12月7日
基準排水量: 8,215t
水線長: 105.2m
速力: 12.5kt
兵装: 12cm単装砲×2
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日本は第一次世界大戦に参戦し世界各地に艦隊を派遣しました。同時に石炭その他の物資を運ぶ船の需要も急激に高まったのですが、世界的な船不足により傭船料は高騰。バカ高い金を払って民間船を雇うよりも、いっそ海軍専用船を建造して運用した方が安いのでは?ということで造られたのが『室戸』型2隻の給炭艦です。

時代は昭和に移って1932年。第1次上海事変に際して医療設備を設置し実質的に「病院船」となったわけですが、病院船籍の登録には万国赤十字の登録、船体の白色塗装、非武装化などが必要となります。さらに軍需物資の輸送も禁止されてしまうため、あえて病院船とはせず運送船籍のまま運用されました。
正式に病院船として認められていないため、軍事攻撃に晒されるリスクは抱えたままです。

太平洋戦争がはじまると連合艦隊に付随して南方へ進出。シンガポール・蘭印方面での病院船任務・補給任務に就き「室戸病院」と呼ばれました。

1944年の10月21日にカタ916船団に編成され鹿児島から沖縄に向け出港。翌22日に奄美大島北方で米潜『シードッグ』に雷撃され沈没しました。


由来となったのは高知県の室戸岬。
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修行中の空海がこの地で悟りを得たとか。確かに空と海だけがある土地でした。



★艦船踏破実績
7隻 27,959t

砲艦『勢多』『堅田』『比良』 [艦名ツーリング]

砲艦ツーリングの続きです。

砲艦『勢多』型
基準排水量: 330t
水線長: 56.1m
速力: 16.0kt
兵装: 8cm単装高角砲×2
     7.7mm機銃×6
大正9(1920)年計画艦で同型艦は4隻。2隻ずつ三菱神戸と播磨造船で建造され、分解して中国に輸送して上海で竣工しました。

砲艦『勢多』
竣工: 1923年10月6日
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終戦時まで健在で、戦後は中華民国の手に渡り『長徳』と改名。さらに共産党軍が接収して『閩江』となりました。

由来は滋賀県大津市にある瀬田の唐橋。上洛の旅の途中で倒れた武田信玄は「瀬田に我が旗を立てよ」との遺言を残したそうです。ここが都に通ずる最後の難関だったということでしょう。
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大学ボート部の艇庫が並び、学生たちが練習をしていました。穏やかな天気で気持ち良さそう。



砲艦『堅田』
竣工: 1923年10月20日
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長江下流域の九江で1945年4月に米軍機の空襲を受けて大破着底。

堅田は大津から琵琶湖東岸を北上したところにある町。名所を探す時間がなくとりあえず駅前にて。
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後で調べると、琵琶湖上に突き出した満月寺浮御堂という名勝があるそうです。また機会があれば。


サクサクと進みます。琵琶湖東岸の快走路(ただし交通量は多い)県道558号線を北上。


砲艦『比良』
竣工: 1923年8月24日
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1944年11月に同じく長江下流の安慶で中国軍機の空襲を受け大破。

比良山地は西の比叡山から続く山塊が琵琶湖に落ち込む断崖です。
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立派な登山口。関西では登山やスキーで人気のスポットだそうです。強風や積雪の影響で樹木の生育しない稜線があり、非常に眺望がいいとか。なるほどなぁ。


同型艦3隻を攻略。
実はもう1隻、紅葉で有名な『保津』も京都の北西にあったのですが…疲れたのでまた今度。
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